ぜんぶ嘘

一人恋愛議事録

8.果たし得ない約束

 遅れてきた青春がやってきて誰かを好きになることを知ったとき、私はもう一生ほかの誰かを好きにならずに済むと思ったら安心した。黒蜥蜴なら毒を飲んで死ぬところだけど、あいにく毒物は甘ったるいアルコールくらいしか用意がなかった。
 先月買ったばかりの新しいブーツを履いてヒョコヒョコ歩いていたら左足首が腫れて痛い。よく知りもしない男の色気もクソもない口説き文句というよりは買収交渉を右から左に流しながら、目の前で表面張力を起こしている透明な液体を無心で胃に注いで間を持たせた。
 
 世の中というものはつまらないデートの愚痴でデートの約束ができるくらい雑で無神経なんだということに最近ようやく慣れてきた気がする。前述のとおり思春期にインターネット漬けだった私はインターネットの冴えないオタクたちの処女願望(裏を返せば強すぎる純愛願望である)に感化されていたし、初めて付き合った男は昭和以前風の大和撫子を時代遅れなまでに追い求めていた。


 数年がかりで行われた刷り込みはそれと同じだけの歳月をかけて解かれるもので、気がつけば自分がなにを目指していたのかすらよくわからない。世の中で結婚して家庭を持つことが幸せだという価値観がなかば集団ヒステリーじみているように、私もまた真っ当な社会人みたいなものにならなければならないと思い込んでいたのかもしれない。
 
 いくら好きでいたとしても彼でさえ私にとっては経験の一部でしかなく、私もまた特別な存在ではないのだ。一連の愛の実験はあえなく失敗に終わった。同じ過ちは三度までにしている。
 よく他にも男を作れと言われていた、私を独占しようとしていた当人に。愛情と現実は全く別物でありながら同時に存在するもので、目に見えない価値に現実を合わせようとすると途方もない努力がいる。もちろんいつも現実に敗れる。
 
 手の届くところに一番欲しいものがあるのに、手近なもので妥協するなんて野暮なことはできなかった。だからもう届かないところにいってしまったことに安堵している。好きなままお別れすると嫌いになることが今後一生ないのかもしれない。
 彼は私の記憶と空想の中でのみ存在する人になってしまったのだ。振られる、ということがこれだけ自由に一方的でいられることだとは思いもよらなかった。あれが私の絶頂であったことは、始まる前から勘付いていた。また開けてはいけない扉を開けてしまったような気がした。
 
 とりあえず純愛の悪夢から解放されたので、誰でもいい男をかき集めて順番に会うっていう彼がかつて私に望んだような行動をとってみたけど、想像以上に簡単に成し遂げられてしまったのでやはりあの時にやる必要なんかなかったことが確認できた。こうして新しい呪縛のなかでまたもがいていくんだと思う。